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MORNING TALK

朝の心

敬老の日に

2012.09.21
朝の心

 昨日は敬老の日でしたが,先日ラジオで「敬老の日」という名前は,「感謝の日」に変更すべきではないかという話を聞きました。それは,最近はたとえば60歳を過ぎても見た目に若い人が多く,お年寄りと呼ぶのは申し訳がないということが理由でした。わたしはそのラジオを聞きながら,別の理由で「感謝の日」という名称を素晴らしいと感じました。
年を取るというのは,多くの人にとって辛いものです。耳が遠くなったり,目が不自由になったり,杖を持たずには歩くことが出来なくなったり,さらには大切な記憶にまで障害が出ることもあります。年を取るということは,今まで当たり前にできていたことを一つ一つあきらめ,そんな自分や現実と向き合い,それを受け入れていくことなのかもしれません。
 しかし,仮に寝たきりになり,自分の力で何かをすることができなくなっても,まだ出来ることはあるとキリスト教では教えています。それは,日々の苦しみや思い通りにならない現実を引き受け,それを苦しんでいるほかの誰かのために捧げることです。普段私たちは,自分の生活に追われているためほとんど目を向けることはありませんが,日々たくさんの苦しみを受け入れ,意識的にか無意識にかは別として,それを祈りとして捧げている高齢者の方もおそらくたくさんいらっしゃるでしょうし,それがわたしたちの日々の当たり前の幸せを支えているのかもしれません。毎年敬老の日を機に,わたしたちは普段忘れてしまっている高齢者への感謝を再確認したいと思います。

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