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MORNING TALK

朝の心

平和を「祈る」

2022.05.20
朝の心

先日、世界的に有名な指揮者である大野和士さんの指揮によるオーケストラを聞きに行きました。わたしの好きなフランスの作曲家、ラヴェルとドビュッシーの作品が演奏されるということで、ワクワクしながら劇場の席に着きました。

冒頭、指揮者が登場しプログラム1番の曲が始まると思ったら、演奏されたのはウクライナの国民的な作曲家であるシルヴェストロフ作曲の「ウクライナへの祈り」でした。広い向日葵の畑に穏やかな風が吹いているかのような、平和でゆったりとした、でもどこか憂いを帯びた曲でした。今の破壊しつくされた街の映像を思い浮かべると、何とも言えない悲しさがこみ上げてきました。それでも、この曲を聞くことで、わたしもウクライナにこころを向けることができました。祈りの込められた音楽の力は偉大です。

2011年の東日本大震災のとき、あるイギリスの作曲家が「陽はまた昇る」という曲を無償で提供し、その収益を被災地のために寄付したことがありました。当時ある吹奏楽部の顧問をしていたわたしも早速楽譜を購入し、定期演奏会で部員と一緒に演奏したのを覚えています。遠い地平線から雄大な太陽がゆっくりと希望をもって昇ってくるさまを想像させるような、ゆったりとした希望への祈りの曲でした。

世界のどこかが危機にあるとき、そこに思いを寄せ祈りを届ける手段として、音楽はとても大きな力を持つのだとその時にも思いました。

わたしたちが「祈る」ときはどんな時か、先日高校生の授業の中で考えてみました。自分の中に願いがあるときがそうでしょう。家族の平和と幸せを願う時、または自分の難しい局面を乗り切らねばならない時などは神仏に手を合わせることもあります。「祈り」はそうした、自分の力だけではどうしようもない状況を「お願いします」と何かに委ねることでもあるのではないでしょうか。

イエス・キリスト自身が教えてくださった「主の祈り」の中で、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」という一文があります。なぜ「わたしの」ではなく「わたしたちの」と唱えるのでしょうか。イエスはこの「わたしたち」という言葉から、祈りを唱える時、自分や自分の家族のことだけを考えるのではなく、もっと広い視点で祈ることを教えています。自分の必要を満たすだけでなく、自分に直接関わりのない人、場合によっては地球の裏側にいる人の必要も満たしてほしいという、広い望みを神様に向けるように教えるのです。なぜなら、わたしたちは皆、神様の愛によって創られた一つの家族だからです。

皆さんも、ニュースや授業、場合によっては音楽を通して世界の人々の状況に触れる時、わたしたちは「祈り」でつながれることを思い起こしてください。支援の始まりはそこにあるのです。

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