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MORNING TALK

朝の心

隠れた仕事を、誰かのために

2014.10.22
朝の心

先日、ある雑誌(カトリック生活)を手に取って読んでいたら、一人の修道士さんについて書かれた記事に目が留まりました。その方の名前はメルシュさん。1936年、26歳のときにはるばるドイツから来日したイエズス会の宣教師でした。彼は木工職人のマイスターでもあったので、神戸にできた学校に勤め、その学校の机といすを全部作ることになりました。学校の裏に工房を構え、来る日も来る日も机やいす、教壇や精密に彫刻された祭壇などを作っていました。いたずら書きをした生徒が先生に怒られ、その机をもって「ごめんなさい」とやってくると、彼は優しく見つめ、黙って机にカンナをかけ、ニスを塗り直して返してあげるのでした。時には学校にやってくるお母さん方の相談相手にもなったとのことです。
そうやって木工工房で働き続けていよいよ80歳になった時、どんな気分かと問うまわりの人に対して、彼はこんなことを言います。「細かい彫刻をした祭壇や十字架などを作ると、皆は『素晴らしい』と褒めてくれる。でも私は誰かに褒められたくて働いているわけじゃない。素晴らしい祭壇を作るのも、毎日廊下をモップで磨くのも、神様の目から見れば同じ。愛をこめてやれば、どんな仕事も同じ価値があるんだよ。」彼は、先生として生徒に関わることはありませんでした。だから、他の先生たちや神父様たちが生徒の話をしているところには入ることが出来ませんでした。そうすると、彼は聖堂に行って一人で祈るのだそうです。『神様、今日一日の疲れ、さみしさ、指のけが、すべてをあなたへの愛のしるしとしてささげます。もしも私への祝福をいただけるのなら、どうかそれを学校の生徒や父母たちに分け与えてください』と。
メルシュさんは、自分の隠れた仕事を、神様のため、そして名前も知らない生徒や父母のために毎日毎日こなしていたのでした。とかく、自分のためだけにより目立つ仕事をし、褒められようとしてしまう私としては、とても考えさせられた記事でした。
皆さんは、あまり目立たないどうでもいい仕事や作業、ごみをひとつ拾うということでも、「誰か」のためにしたという経験はありませんか?どんなにくだらないと思える作業でも、誰かの幸せのためになっていると思うと、心は満たされてくるものです。メルシュさんのやさしさを一人一人が持てるなら、きっとこの学校はもっと素晴らしいものになると思います。

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