MENU

閉じる

閉じる

MORNING TALK

朝の心

十字架

2015.05.02
朝の心

皆さん、おはようございます。チャプレンの中田です。
寒く殺風景な冬が終わり、花が咲き新芽が芽吹く春のこの季節に、キリスト教では最も重要な祭りである、キリストの復活を祝う「復活祭」、英語ではEasterが行われます。しかし、その2日前にはキリストが十字架上で死んだというショッキングな事件を思い出す「聖金曜日」という日があるのをご存じでしょうか。
今日は「十字架」ということについてお話したいと思います。
皆さんの教室には十字架が掛っているかと思います。また、キリスト教のどの教会に行っても十字架は必ずあります。この十字架はキリストがいわれもない死刑の判決を受け、苦しみながら死に、そして復活したことを象徴するしるしです。昔、「十字架を見ていると気味が悪い」と言われたことがありました。確かに血を流した男の像ですから気味が悪い。もしかしたらこれが普通の人の反応なのでしょう。しかしキリスト教ではそこに神の愛を見るのです。
難しい話になりますが、この十字架にはキリストの自己犠牲という意味があります。キリストは本来人間が負うべき苦しみを背負って、人間の身代わりに十字架にかかっていったのだと教えられています。これを理解するのは容易ではありませんが、特に皆さんに分かってほしいのは、キリストの十字架の苦しみは自分以外の「誰かのため」の行為であったということです。皆さんの保護者の方々は、皆さんが立派な自立した大人になるよう、皆さんのために働き、学費を払い、お弁当を作ってくれています。自分がヒーローになったり利益を得るためという動機はそこにはありません。「皆さんのため」に自分の時間やエネルギーを差し出していると言えます。キリストは自分には何の見返りもないところで、誰かのために、もしかしたら皆さん一人一人のために自分の命を投げ出しました。皆さんが校内で、または校外で十字架を目にした時、自分のために何かを、時には命を犠牲にしてくれている人がいるということを是非とも思い出してほしいと思います。また、皆さん自身も「誰かのため」の存在、誰かの役に立つ存在、誰かのために自分を犠牲に出来る存在となっていってほしいと思います。

閉じる