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MORNING TALK

朝の心

「ふつう」をこえて

2025.10.15
朝の心

 みなさん、何か質問をされて「ふつう」と答えた経験はありませんか?ふつう「ノーマル」という言葉はラテン語から来ていて、もともと大工さんが使う道具によって作られた、直角や直線を指す、数学的に基準にそったとか典型的なという意味があったようです。

 さて、そのような杓子定規ではかられた「ふつう」がわたしたちの社会に存在するのかというとどうでしょう。わたしたちのふつうという感覚は、一定の集団の中の基準として存在します。例えば自分の友だちの中でとか、日向学院生の中ではとか、大きくは日本ではとか。そのある基準の中にいればふつうだし、外れていれば、「ふつうじゃない」とか「変」となるわけです。でもそれは、いつでも通用するものではなく、例えば日本でふつうのことでも、外国ではふつうではないことがたくさんあります。

 ふつうでいたいと思うことは悪いことではありません。ただ、自分や自分たちのグループのふつうという基準を誰にでも当てはめがちな私たちは、知らず知らずのうちに他の人を受け入れず傷つけていることがあります。

 イエス自身も罪人と呼ばれた人々、病人や貧しい人たちに近づき、食事をしたり、仕事をしてはいけない安息日にも病人をいやしたり、当時のユダヤ教のふつうにあてはまらず、結果的にイエスは捕らえられ十字架につけられました。

 今月初めに学院を来てくれたクボタカイさんは講演の中で「自分はたぶん学院生の目指すものと真逆の仕事をしている」というようなことを言っていました。学院生としては「ふつう」ではないかもしれませんが、それはたくさん悩んで、親ともぶつかったうえで本当にやりたいことを自分で決断したものです。そうして輝くクボタさんは自分に与えられたミッションを見つけられたのだと思います。

 「カトリック」とはいつでもどこでも誰にでもあてはまる「普遍性」を意味する言葉です。今の自分や周りの「ふつう」にとらわれず、本当に自分がやりたいこと、大切だと思うことについて心の一番奥で耳を傾けてください。きっとその声は神様の思いとつながっていて、皆さんに与えられたミッションと関係しています。そしてそれは誰かを想い、愛するというイエスのミッションとつながっているのです。

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